■ 5件の投稿があります。 |
【2】 1 > |
削除
す-す-す (2016年12月22日 07時07分) |
|||
トピ主により削除されました (2016/12/22 08:09) コメント: |
|||
【4】 |
カンパチ・環八 (2016年12月22日 01時35分) |
||
これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
青いカラスさん、前トピはすーに荒らされて落としたので、 新たにトピを立てましたので、 青いカラスさんのレス【33】を、こちらに移しました。 【33】青いカラス RE:マリー・ルイーゼ 評価 青いカラス (2016年12月21日 21時21分) これは 【トピック】 に対する返信です。 どうも、こんばんは、カンパチさん。 さて、今日は私の結論を書きます。あくまでも1つの考え方です。 戦争や交渉など争い事の根源は、人間(生物としての)生存への欲求の姿であろうと。生存する権利を守るためというほうが、しっくりきます。 もう1つ、子孫を残す欲求です。 人間が他の生物と違うことの1つに、かなり早い段階で将来、自分がいつか死亡することを知っているという点が上げられます。人間は自分のDNAの伝承者である子供を、幾つになっても守ります。これは、他の生物では見られない現象です。ほとんど生物は、自分の子供が人間の年齢でいえば10歳程度を越えると親が身を挺して子供を守る行動は取らないものです。老化という点において、DNAは、親よりも子供のほうが優れた乗り物であるから、老化の先には死があることを知っている人間だからこそ、なせる技でしょう。 軍隊を持つ国に「あなたの国は、なぜ、軍事力を保有しているのですか?」と問えば、「国防のため」と返ってくるでしょう。絶対に「侵略のため」とは返ってきません。 こちら側からみれば、どんなに侵略行為にみえても相手側からすれば、生存のため、子孫を残すため、の守りの攻撃で、そこには相手側の理論ではあるけれど正義があるものです。 もちろん、軍事力が暴走することは悪ですが、これを完全否定することも悪なのではないかと。 人間は集団の中で自分の役割を担って生きていくわけですが、軍事力の部分を担う役目は大変なことだと思います。 もし、どこかの国や集団が日本に攻め込んできた場合、自衛隊員が死亡したら、または、自衛隊員が相手を死亡させたら、それは、同じ集団の日本国民全てが責任を取るのが筋でしょう。 国際貢献という行為も、日本国という集団が、より良く生存するための戦いの一手です。その場で、上のようなことが起きても同じです。日本国民全てが責任を取るのが筋でしょう。 平和ボケの人たちは、争いをするのは嫌、争いをすることを誰かに任せ、その人たちに貢献したり、同じように責任を取るのも嫌、有限な世界で軍事力を行使しないまでも様々な方法で熾烈な競争が行われていることを知ろうともしない。 同じボケなら、戦争ボケのほうがまだリアリストなだけマシかなと考えるわけです。 |
|||
【3】 |
カンパチ・環八 (2016年12月22日 01時30分) |
||
これは 【2】 に対する返信です。 | |||
>中東行くなつってるのに行って殺された人居るよね? >そん時、日本人は何かしたかい? 香田君がイラクで人質になった事件でしょ。 「人質を解放してほしければ、自衛隊を撤退させろ」 と言う要求を、小泉首相は 「テロには屈しない」 と称して拒否した。 その頃、日本国内では「自己責任」という言葉が、はやってた。 それで、 「イラクに入っていった香田君が悪い」 と言う人が多かった。 一方、大体、同じ頃、フィリピン人労働者が、やはり、人質になり、 フィリピン政府が、軍撤退を要求される、という事件があったんだけど、 覚えてますか。 フィリピン政府は、イラクから軍を撤退させ、人質は無事解放された。 フィリピン国民の7割以上が、大統領の判断を支持したそうだ。 この二つの事例を単純には比較できないけど、 日本国民は冷酷だな、という気はするな。 人ひとりの命と、国際的メンツのどっちが大事なんでしょうね。 そして、日本人は、この事件から何か学んだんだろうか。 その時、僕が気になってしょうがなかったのは、 メデイアも政治家も、というか日本人の誰もが、 フィリピン政府の判断について、何も語らない、ということ。 だって、誰も覚えてないでしょ。 それと、香田君の親御さんの悲しみについては、ほとんど誰も言及しなかった。 >現日本人は全てに無関心。 >自衛隊員が戦死しようが人殺そうが知った事では無い。 その話に沿うかどうかわからんけど、 児玉聡著「功利主義入門(ちくま新書)」という本に、こんなことが書かれてます。 ーーーーーーーーーーーーーー 今日の世界には、飢えや病気に苦しむ大勢の人がいて、 先進国に住む我々の多くは新聞やテレビの報道を通じてそのことを知っている。 しかし多くの人はそれを知りつつ、何もしない。 しばしば、国内の困っている人に対してさえそうだ。 誰かが何とかしてくれると思っているうちに、 毎年、救おうと思えば救えたはずの多くの命が失われている。 我々の多くは、このような状況について良心の痛みを感じることはあるだろう。 ところが、実際のところ我々の多くはほとんど何の援助もしない。 それはなぜなのだろうか。 マザー・テレサは、かつて、 「群衆を目にしても、私は決して助けようとしません。 それが一人であれば、私は助けようとします」 と述べたとされる。 オレゴン大学心理学教授のポール・スロヴィックは、 援助に関する人間心理が彼女の言葉に凝縮されていると考え、 「『群衆を見ても私は決して助けようとしない』−−−心理的麻痺と虐殺」 というタイトルの論文を2007年に発表した。 我々は決して聖人ではない。 だが、目の前に困っている人がいれば可能な範囲で助けようとする。 犬や猫でも助けることもある。 しかし、援助を必要とする人の数が増え、それが統計的な数になると、 我々はしばしば「心理的麻痺」に陥る。 我々が大規模な災害や虐殺に対してほとんど何も感じないのは、 人間の心理には何か根本的な欠陥があるからではないか。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 続きを知りたい?。 >>交通事故を体験しなければ、事故を防げない、とでも思ってんの?。 > >答えはYESですね〜wwww ということは、事故を起こした人は事故の経験が無いからだ、ということになる。 では、無事故の人は、事故の経験があるからだ、 ということになるね。 そうすると、 この世に、事故経験の無い人は存在しないことになりゃせんか?。 それはおかしいでしょ。 日本では、大体年間50万件の事故が起きてるけど、 日本国内の車両数は5000万台以上。 この数字を見てどう思う?。 多重事故を除けば、事故1件につき、関係車両は1,2台、と考えて、 関係車両総数は70万台くらい、ということになりますか。 事故体験が無くとも事故らない人の方が多い、と考えた方がいい。 |
|||
© P-WORLD