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【77】 |
環八 (2014年08月18日 15時00分) |
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これは 【74】 に対する返信です。 | |||
行かなかった。 |
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【76】 |
Piro3 (2014年08月17日 12時17分) |
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これは 【69】 に対する返信です。 | |||
>何でも性的メッセージを引っ張り出したがるのは、精神分析の影響なんでしょうね 3大欲求の1つだからなのかな。。 後、[幼少期に]も定番だね。 同性愛がどうこうは アナとエルザじゃなくて [ありのままでいい]って事に対してなんじゃん? 王子様を必要としなくなった。 という意味もあるのかもだけど。 |
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【73】 |
環八 (2014年08月17日 11時02分) |
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これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
昨日は、 先日、牙狼で陰我消滅した分を全部、 エヴァで使徒に殲滅されました。 今日は、北斗神拳の真の力を教わりに行ってこようかな。 いや、やめとこ。 |
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【72】 |
環八 (2014年08月16日 19時21分) |
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これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
下世話な話を一つ。 僕と彼女の会話。 『オレの知り合いの妹は、なんか、18くらいの時にレイプされて、精神状態がおかしくなったんだって』 『ふ〜ン、そのくらいの年だったら、そうかもね。あたしは、レイプされてもどうもないけどね』 え〜〜〜〜〜〜っつ????。 |
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【71】 |
環八 (2014年08月15日 19時54分) |
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これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
世の中には、こんな人生観もあるのか、と思ったこと。 岡田尊司著『回避性愛着障害』より ☆コツヂキという生き方 コツヂキは、それ自体が修業の方法とされるが、もともと古代インドなどでは、修行僧を支える社会システムとして定着していた。 施しを与える方にも功徳があることから、双方とも利益を得られる互恵的な仕組みだったのである。 日本でも、信仰心の篤い地方では、托鉢に対して理解があり協力的だが、地方によっては、さげすんだ態度をとったり、排除しようとしたりすることもある。 仏教において、コツヂキは、もともと尊い行為であるはずだが、同じ字をコヂキと読めば、単なる物乞いとして蔑視され、両者の境目は必ずしも明確ではない。 このコツヂキという営みは、例えば、引きこもって暮らしている人にとって、どこか馴染みやすい、親和性の高いライフスタイルのようにも思える。 そういう状況にある人は、通常、身近な誰かの慈悲にすがって生きている。それは親であったり、兄弟であったり、パートナーであったりだろう。彼らが得た日々の糧から、なにがしかを分けてもらい、暮しを立てているわけだ。それによって、自らは俗世間に出て労働したり、益を求めたりしないですむ。 修行には、一切生産活動をせず、自分のためにのみ時間を使うという側面があるが、そこだけを見れば、就職しないで誰かのスネをかじり、社会の煩雑事を避けて暮らすことも同じである。そして、コツヂキもまた修行である。 ところが、世間一般の価値観としては、誰かのスネをかじって社会に出ることもなく過ごしている人を困りもの扱いし、時にはパラサイト(寄生生物)呼ばわりする。 しかし、仏道修行者にあっては、常コツヂキ(じょうこつじき)、つまり働かずに他人に食を乞うことによってのみ生きることが推奨される。働こうとすると、そこから欲や生きることへの執着が生じるからであって、身を浄め、仏性にたどり着くこととは逆行してしまうからである。 ☆欲のために働かない 生産し、益を積極的に求め、富を増やす生き方に対して、コツヂキは、他者の余剰にすがって生きる生き方である。それは、余分な富を所有しないということに通じ、必要最小限のモノだけで暮らす清貧の思想とも結びついている。 直接生産するのではなく、みんなから集めた布施によって生活を立てるという生き方は、例えば、公務員や役人などに通じる。彼らは税という形で、施しを強制するわけである。 僧侶や公務員や役人は、かつては敬意を払われたが、その源は、直接生産したり、私的な利益を求めない公共性にあった。それは言い換えれば、特定の誰かを益するものではないということで、つまり、特定の誰かに執着してはいけないのである。 俸給も、誰かの役に立ったから与えられるというものではなく、働きに関係なく決まったものとして支払われる。公共性を保つためには、そうした脱執着的構造が必要だった。万人の幸福に奉仕する者は、個の欲を捨てることが求められる。それは、布施とかコツヂキによって得た浄財によって食い扶持を賄うということと共通する。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー こういう人生観があってもいいな、とは思います。 ただ、現実の公務員は、清貧の思想に基づいた生き方をしてるとは、到底思えませんけど。田舎というか地方では、公務員の方がリッチだもんね。 |
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【70】 |
環八 (2014年08月14日 22時09分) |
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これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
とにかく、雨が降ります。 今月に入って、晴れた日は何日あったでしょうか。 台風11号、12号が去ったら、ピーカンの晴天になるかと思ったら、やっぱり、雨が降ります。 ホントに八月なのでしょうか?。 も、うんざり・・・。 だれか、なんとかしてくれ。 |
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【69】 |
環八 (2014年08月14日 08時43分) |
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これは 【トピック】 に対する返信です。 | |||
『アナと雪の女王』についての批評で、同性愛のカミングアウトだとか、女性同士の絆を描いている、とかいうのがあるらしいのですが、何でも性的メッセージを引っ張り出したがるのは、精神分析の影響なんでしょうね。 この映画をアナとエルサの姉妹に着目して見る限り、素直に「友愛=フレンドシップ」を描いている、と思うのが普通じゃないですかね。 この映画では姉妹にしてあるけど、兄弟であってもおかしくはない、と思うんですが。 フレンドシップというのは、様々な愛の形の中で、最も高度で、おそらく人間にしか備わっていない愛じゃないか、と思うのです。それこそ、互いに相手をありのままの受け入れ合います。他の動物に、友愛、って、あるのかな。 親子愛、性愛などは、愛し合っている者同士だけの間にだけ成立するものですが、友愛は、複数の人間の間に、割とすんなり広がっていくもので、その最終形は『博愛』ということになるはずです。 少なくとも、子供たちにとっては、友愛は、素直に受け入れることができる愛だと思いますが。友達のために、一所懸命になる、っていう。 この映画に、性的なものを見出そうとする試みには、なんだか、大人のいやらしさを感じさせる、という気がするなあ。 |
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【68】 |
環八 (2014年08月13日 22時04分) |
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これは 【67】 に対する返信です。 | |||
なるほど、そういうことでしたか。 納得しました。 (んなワケないだろ |
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