トピック |
血風クロニクル 野歩the犬 (2014年06月07日 11時32分) |
「仁義の墓場」の後継トピです。 タイトル一新、 落ちるか・・・ 残るか・・・・ 崖っぷちの一筆・・・ 前トピのごひいき筋も 初見の方も 読み捨て御免、 お引き立てのほど 宜しくお願いいたします ※P-worldの利用規約を遵守ください。 |
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野歩the犬 (2015年07月07日 16時46分) |
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【66】 船室に残されたものたちのために ディーン・リーパー師が祈りを唱え始めた。 二人の宣教師もそれにならった。 神に召されるものたちを導く声が 低く、あたりを流れていった。 三等後部船室の青山妙子は頭のそばへ放り投げられた 救命胴衣をつかんでからだを起こした。 隣のせんべいの女は救命胴衣に 手を出そうともせず、腹這いになったままだ。 口の中でなにかしきりにつぶやいている。 聞き耳をたてて、念仏だとわかった。 不意に妙子はこわくてたまらなくなった。 この女は子どものときから 連絡船に乗っている、と言っていた。 彼女の経験からくる直感は船が沈むことを 嗅ぎとっているのではないか。 だから、念仏を唱え始めたのだ ――― いやだ、死にたくない、と思った。 さっき、お医者さまはいらっしゃいませんか、 と放送があったときには頭が上がらなかったのに、 今は嘘みたいにしゃんと立てた。 「ボーイさん、船はだめなんですか」 胴衣を配る給仕の背中に向かって妙子は大声をあげた。 相手は何も答えず去っていった。 ぐるっ、とあたりを見回した。 荷物が散乱し、金だらいがひっくり返っている。 償却たちは手から落とした胴衣が 転がっていくのを必死に追いかけ あるいはそれをつかんだまま、傾斜に逆らって 畳の高い方へと登っていこうとしている。 お互いにぶつかり合いながら、 どちらも相手を意識していない。 ただ、自分のことだけを考えて動きまわっている。 こんなひどいことになっていたのか ――― と妙子は初めて気づいた。 やはり船は沈むに違いない。 だから誰もが相手を蹴飛ばし、 踏みつけながら逃げ惑っているのだ。 しかし、どこへどう、逃げればいいのだろう。 従軍看護婦としてフィリピンへ向かう船の中で 兵士から聞かされた話を思い出した。 「船が沈むときはできるだけ遠くへ離れることだ。 そうしないと沈んでゆく船が 起こす渦に巻き込まれる」 泳げない自分にそんなことができるのだろうか、 と不安になった。 それでも彼女の手は頭からかぶった 救命胴衣のひもを素早く結んでいた。 「落ち着いてください。 なにも心配することはありません」 左舷側へ集ってきた人たちの間をかき分けて 出口へきた妙子を給仕が制した。 両手を広げたその格好が妙子には 地獄の門番のように見えた。 「通してちょうだい。あたしは死にたくない」 妙子は給仕を突き飛ばして階段を駆け上がった。 上部遊歩甲板に出た。左舷側のデッキには 覆いかぶさるような大波が打ちつけている。 こんな海にはとても入れない、と思った。 誰かがずぶ濡れになってこっちへ駆けてくる。 「船はもうだめですか」 妙子は叫んだ。 相手も叫び返してきた。 「だめだ、にげろ!」 逃げろ、と言っている。 この人もやはり船から離れようとしている。 男のあとについて走ろうとしたがすぐに見失った。 あとはどこをどう歩いたのかわからない。 滝に打たれたようにずぶ濡れになって 右舷側のデッキにたどりついていた。 こちら側には波はぶつかっていない。 しかし、船はすっかり傾いていて デッキすれすれまで海水がきている。 彼女は決めた。 こちらからならすぐ海に入ることができる。 あとは力を使わないようにして 救命胴衣を頼りにじっと浮いていればいい。 風と波が自然に自分を船から遠ざけてくれるだろう。 そのうち、きっと救助船がきてくれる。 ふと、東京の妹の顔が目の前に浮かんだ。 ちょっと遅くなるかもしれないけど、必ず帰るわよ。 あたしは生きてゆくことにしたの、 と微笑みながらその顔にむかって言った。 デッキの端の手すりにつかまりよじ登った。 思ったより楽だった。 しばらくためらったけれど、 思い切って妙子はそこから飛んだ。 投身自殺するためではなく 新しく生きるために ―――― |
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【337】 |
野歩the犬 (2015年07月07日 16時22分) |
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【65】 二等ラウンジでは給仕がロッカーから取り出した 救命胴衣を三人の外国人宣教師が客に手渡していった。 三人ともまだ自分たちはそれを身につけていないのに 周囲の日本人客が頭からかぶるのを手伝ったり、 ひもを結んでやったりしていた。 ラウンジのイスはほとんどが 右舷側に転がり落ちてしまっている。 乗客たちは床に尻をついて、 やっとからだを支えるしかない。 子どもがひとしきり高く泣き声をあげている。 女たちはただ青ざめてうずくまっている。 そんな混乱したラウンジの中で 函館遺愛女子高校の宣教師 ディーン・リーパーは這うようにして 人々に救命胴衣をつけさせてやっていた。 「さあ、坊や、これを着るんだよ。 おっと、それじゃ前と後ろがあべこべだ。 ちょっと待ってね。 いま、こっちのお姉さんのひもを結んだら やってあげるから」 ディーン・リーパーはつとめて明るい口調で 人々を落ち着かせようとしていた。 一段と大きな揺れがした。 床の傾斜が激しくなる。 ラウンジの客たちは叫び声をあげ、 一斉に右舷側へと落ちてゆき 先に転がり落ちているイスの固まりに 全身をしたたかにぶつけた。 リーパーは窓際に下がっているカーテンにつかまった。 そのとき、彼は初めて 船は沈むかもしれない、と感じた。 それでも陽気な表情を崩さず、 目の前で泣き叫ぶ子どもの手をひいた。 「よしよし、坊や、痛かったかい。 さ、おじさんにつかまりなさい」 片手でカーテンにぶら下がったまま、 三人の宣教師たちは救命胴衣をつけた。 宣教師の一人が周囲の日本人客に声をかけた。 「はいあがれる人は船室の外へ出てください。 若い人たち、行けるでしょう。 さあ、早くここから逃げるのです」 誰もが狂ったように手足を畳に叩きつける。 だが、老人や子どもたちは空しくずり落ちていった。 若く、体力のあるものだけがようやく床を登りきり 開いているドアを探して外へ出た。 しかし、彼らが本当に幸運なのかどうか、 誰にもわからなかった。 |
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【336】 |
野歩the犬 (2015年07月07日 16時19分) |
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【64】 一等船室の浅井・国鉄札幌総支配人たちの一行には 特に事務長から洞爺丸が座礁したことが報告され、 救命胴衣が手渡された。 だからといって、事務長も浅井ら国鉄幹部たちも このまま船が沈むとは考えもせず、 物珍しそうに救命胴衣をつけ、 傾きを増してきた特別室にとどまっていた。 二等雑居室では畳に敷かれたじゅうたんが 客を乗せたまま右舷側へと滑り出した。 立っていられないので、救命胴衣を つけるどころではない。 ようやくじゅうたんから這い出した乗客たちは それがめくりとられたあとの畳に手をついて からだを支えようとするのだが、 手にべっとりと汗をかいているため、 またずるずると滑り落ちてゆく。 彼らが手に汗をかいているのは 極度の緊張と船室のドアが締め切られている 蒸し暑さからだった。 一、二等船室担当の給仕たちはしきりに 「危険ですので甲板に出ないでください」 と呼びかけ、出入り口を閉めた上、 外から鍵をかけて回っていた。 一、二等船室は上部遊歩甲板の中央部分にあって、 船首の方から一等客室、一等ラウンジ、食堂、 一、二等寝台、二等ラウンジ、 洗面所、二等雑居室の順に並んでいる。 給仕たちは一、二等とも右舷、 左舷側の一つずつの出入り口を残して あとのドアに全て鍵をかけた。 それは洞爺丸がおかれた状況に 照らして正しい処置だった。 船室外のデッキはおそるべき風浪に洗われている。 こわいもの見たさにのぞいてみようという客がいたら 一歩、ドアの外へ出た瞬間、 波にさらわれるに違いなかった。 また、三等客が上がってくる心配もあった。 左右へ揺られ続けている客の不安が恐怖に変ったとき 群集心理はどう走り出すかわからない。 車両甲板の下の三等客たちが安全な場所を求めて 一、二等船室に乱入してくるかもしれない。 どちらの場合でも出入り口を少なくして そこを監視しているほうが 給仕たちにとって懸命な判断だった。 彼らは自分たちが世話をすべき 乗客の安全を第一に考え、 ドアを閉め、鍵をかけたのだった。 だが、給仕たちはそれが結果として 客の生命を奪うことになるとは 全く気づけなかった。 蒸し暑くて汗をかくぐらいなら、 かまわないがドアに鍵をかけたことは 一、二等客を船室に閉じ込めることになったのである。 それは給仕たちもまた、この船が沈むなどとは 毛頭考えていなかったことの証であった。 |
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【335】 |
野歩the犬 (2015年07月06日 11時39分) |
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【63】 原田勇は節子の肩を抱いて よろよろとした足どりで部屋を出ると 遊歩甲板への階段をあがった。 二人が出るのを見て、あとについて ゆくことを決めたものが数人いた。 下部遊歩甲板はすでに三等イス席を 出てきた人たちでごった返していた。 傾いた床を右へ急ごうとするものが、 左へ走るものとぶつかり合う。 この船に何度も乗っている勇は まっすぐ上部遊歩甲板への階段に向かった。 階段の下で勇は思わず立ち尽くした。 狭い階段の途中で手すりの金棒を しっかりとつかんだまま、老女が倒れている。 上へ逃げようとしてつまずいたか、 揺れと傾斜とで上がれなくなってしまったのだろう。 その老女を蹴飛ばし、踏みつけて あとから来るものたちが階段をのぼってゆく。 目をそむけたい気がした。 しかし、ためらっているわけにはいかなかった。 「踏み外すなよ」 勇は言い、節子のわきの下へ手を入れて 抱えながら階段を一歩ずつ上がった。 裸足の下に柔らかい感触が伝わったとき、 勇は思わず、足の力がぬけた。 上部遊歩甲板はしぶきで真っ白だった。 そこへ見上げるような高さから大波が打ち込んでくる。 ざぁっ、と頭から海水をかぶって 呼吸がつまりそうになる。 節子を腕の中へ入れたまま、 素早く一、二等船室の壁につかまった。 もう少し遅れていたら波にさらわれていただろう。 しがみついた二人の足元を 泡立った海水が洗っていった。 ここにはいられない、と勇は思った。 だが、甲板から上へは彼も行ったことがない。 上がるにはどうすればいいのだろう。 あとから上がってきた二、三人の男が、 波が引いたすきを見て、甲板を走り抜けてゆく。 そのあとを追いかけるとすぐ端艇甲板への階段に出た。 一番高い端艇甲板に出ても、 海そのもののように見える 巨大な波が頭上から叩きつけてくる。 「きたぞ。しっかり、つかまっておれや」 恐怖と疲労で口もきけなくなっている節子を 自分に抱きつかせながら 勇自身は手すりにつかまって波に耐えた。 全身を痛いほど打たれた。 波が引く短い時間に持ってきた ひもの一方を節子のからだに結びつけ 片方の端を自分に巻きつけて縛った。 「ほれ、節子。これで大波がきても大丈夫だぞ。 離れ離れになる心配はねえ」 端艇甲板には四角い木製の救命筏が下がっていた。 先に上がってきた男たちはそれにつかまっている。 船が沈んだときはそのまま、 筏で流されていこう、というのであろう。 二人はそこへそろそろとにじり寄り、 波が来る方へ背をむけて筏にしがみついた。 「ようし、節子、これで助かったようなものだ。 離すなよ。しばらくの辛抱だ」 節子は愛くるしい顔をあげて、 ひとつ、こっくりとうなずいた。 しかし、勇はとても助かるはずはない、と思った。 ここにいてもあの大波に打たれ続けたら、 節子はもちろん自分もきっと 息を詰まらせて死んでしまうだろう。 船が沈んだら、からだを結び合った自分たちは 波の底へ沈んでゆくに違いない。 どちらにしても待っているのは死だ。 彼自身にとっては幸福だった半年を勇は思い返した。 それに比べてこの娘は幸せだったのだろうか。 幸せにしてやった、という自信はない。 そのうえ、生まれて初めて乗った連絡船で なぜ、こんな死なせ方をしなければならないのだろう。 不意に勇はたまらなく節子が不憫になり、 両手でしっかりと抱きしめた。 何度目かの大波がその上に襲いかかった。 |
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【334】 |
野歩the犬 (2015年07月06日 11時33分) |
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【62】 洞爺丸の各船室に救命胴衣が配られはじめた。 「まず、このひもをほどいて、 ここの膨らんだ部分を腹と背中に分けて 頭からかぶります。 それから、ひもをしっかり胴のところで 縛ってください」 配るに先立って、給仕たちは 胴衣を手にして実演してみせた。 三等雑居室では天井にとりつけられた ロッカーを給仕たちが開いてまわった。 畳の上にどさっと投げ出される救命胴衣に 周囲の乗客たちが群れ集って奪い合った。 「あわてないで。数は十分ありますから」 給仕たちは制止したが、乗客たちはやめなかった。 傾いている畳の上を転がるようにして胴衣をつかみあう。 救命胴衣をつけなければならない事態になったことに 乗客たちはすっかり動転していた。 立ち上がって自分でロッカーを開こうとする者もいる。 長く開かれなかった扉の中には 錆び付いて動かないものもあった。 客たちはどこで見つけてきたのか、 斧をふるい、ロッカーを叩き割った。 あさましいことだ ――― そう思いながら前部三等船室の 淵上助教授はあぐらをかいたまま 室内の様子をながめていた。 この船が沈むとはまだ彼も考えていなかった。 もし、沈むならどうせ大荒れの海で助かるはずもない。 いまさら、あわてても仕方がないではないか。 学生たちはみな、救命胴衣をつかんで 出口の方へ行ってしまっている。 「まあ、若いものは元気にまかせて したいように、することだ」 助教授はつぶやき、ますます右舷側への 傾きを大きくしている畳に腰をすえ直した。 目の前にひもで丸く、くくられた 救命胴衣が転がっている。 奪い合いに加わらなかった彼はそれをつかんだ。 隣を見ると、やはり胴衣のない男が 泰然として座っている。 「これをどうぞ」 手渡したところへまた、ひとつ転がってきた。 そのひもをほどき、頭からかぶってみた。 「なるほど。うまく胸と背中で 合うようにできていますな」 助教授は隣の男に言った。 その近くで原田勇は節子のからだを抱え起こし、 救命胴衣をつけてやった。 「二十四時間もつ、と書いてある。 これを着ていれば大丈夫だぞ」 説明書を読みながら、節子に言った。 しかし、彼はもうだめだ、と思っていた。 波はとっくに車両甲板まできている。 そいつがいよいよ天井を打ち破って どっと流れ込んでくるだろう。 自分は泳げないし、この娘は船酔いで 虚脱したようになっている。 海の真ん中でどうやって助かることが できるというのか。 節子の介抱に気をとられていた彼は 七重浜に座礁しました、 という船内放送を聞いていなかった。 船は函館を出て、青森へ向かっており、 そろそろ津軽海峡から陸奥湾に入るあたりと思っていた。 だが、ともかくこの娘を助けてやらなければいけない。 それには車両甲板の下にいては危険だ。 上へあがることだ。 自分も救命胴衣をつけ、 ふだん米を背負うひもを一本持ち、 節子を抱きかかえて立ち上がった。 利尻昆布のことは忘れてしまっていた。 裸足のまま、節子を引きずるように 左舷側の出口へ向かった。 船は右舷側に傾いているので 坂道を登ってゆくようだった。 「ちょっと通してけれや」 勇は人ごみに分け入った。 前部三等船室にいた二百人のほとんどが 左舷出口の周りに集ってきていた。 右舷側が下になっているので 本能的に高いほうへと人々は集った。 救命胴衣をつけた客たちは そこで船室の外へ出るべきかどうか 決めかねたまま、お互いに顔を見合わせあっていた。 |
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【333】 |
野歩the犬 (2015年06月24日 16時22分) |
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【61】 打つべき手はすべて打った。 と、いうかもう、打つ手はなかった。 もう、逆らおうにも船は動かないのだ。 ここで波とうねりがおさまるのを待つしかない、 と、近藤船長は腹をくくった。 「乗客の様子はどうだ」 指示を待つためにブリッジの下へ来ていた 事務長に船長は尋ねた。 「はい、今のところ、静かにしています」 「座礁したから大丈夫だと伝えなさい。 それから念のため救命胴衣を配るように」 すぐ船内放送が行われ給仕たちが備え付けてある 救命胴衣の格納ロッカーを開くために 担当の船室へと散っていった。 その間にも激流は洞爺丸の左舷側を叩き続けていた。 したたかに打たれるたびに船は 右舷側への傾斜を少しずつ大きくしてゆく。 今はもう、船は水中に浮いているわけではないので いったん傾きが大きくなると元へは戻らない。 しかも座礁すれば止まると思った船がまた ズルズルと七重浜の海岸へと押し流されている。 柔らかい砂の上を滑走しているのだ。 右への傾斜が戻らないまま、 砂の上を走っていったらどういうことになるか。 とりわけ大きな波に叩かれたのだろう。 洞爺丸の傾斜がぐっと右へ増大したとき、近藤船長は 「これはいかん!」 初めてそう思った。 風が衰え始めてきていることは この状況ではなんの救いにもならなかった。 引きずっていた左舷側の錨鎖がしっかりと張って 船の右への傾斜を最小限に食い止めている。 この錨鎖だけが、いまでは洞爺丸の命綱だった。 もし、これが切れたらたちまち船は横転するだろう。 「全員、救命胴衣を着けよ」 近藤船長は命じた。 操舵手が士官室へ降りて行って、 船長や航海士たちの救命胴衣をとってきた。 それを差し出された近藤船長は 「ありがとう」 と言っただけで身につけようとはしなかった。 水野一等航海士もそれにならった。 苦渋に満ちた顔で近藤船長は無線室への ボイスチューブによろけながら駆け寄った。 「500キロサイクルでSOSを打て」 500キロサイクルは海上保安部はじめ、函館桟橋、 付近の船舶すべてが聴取している周波数である。 命じながら船長はなんという信号を 出すことになったのだろう、と思った。 救助信号の発信など自分が指揮する船に あるはずがなかったのだ。 こんな事態になったことが いまだに彼には信じられなかった。 命令を受けた無線室では通信士たちが 船の傾斜のために発信機を乗せた 机に向かってイスに腰掛けられなくなっていた。 さっきからイスは部屋の隅へ放り投げ、 傾いた机に中腰になって 三人が交代で電鍵を叩いていた。 松本通信長が机に向かって腰を折った。 頭上から降り注ぐ海水の中で首席通信士が 傾いて倒れかかろうとする送信機を両腕で支えている。 かがみこんだ格好の通信長の肩を 次席通信士が力まかせに押さえつけた。 揺れで電鍵を打つ手元が狂わないようにするためだった。 これだけは打ちたくない、と思っていた むろん、通信士としての長い経歴の中で 初めての信号を松本通信長は叩き始めた。 「SOS洞爺丸。本船は函館港外青灯台より267度 8ケーブルの地点に座礁せり」 午後十時四十分だった。 |
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【332】 |
野歩the犬 (2015年06月24日 16時16分) |
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【60】 両舷エンジンが停止した洞爺丸は 風浪と走錨の抵抗力を完全に失った。 波に翻弄されながら錨を引きずって 北側の七重浜へ向かって流されてゆく。 機関が停止すると舵がきかなくなるので 船首を風に立てることはできない。 船は横向きになり、左舷から 猛烈な風と巨大な波を受け始めた。 右舷側へ大きく傾いたまま、どんどん圧流された。 「海岸まで、どのくらいだ」 近藤船長が怒鳴る。 「1200メートルです」 レーダーにしがみついている 山田二等航海士が叫び返した。 ブリッジの外は覆いかぶさってくる波で 全く何も見えない。 レーダーだけが頼りだった。 「よし、このまま七重浜へ座礁する」 近藤船長は言った。 それが唯一、残された方法だった。 夏は海水浴場となる七重浜は 岩のないなだらかな遠浅海岸である。 南からの風と波に圧流されてゆくと 船は運よくその海岸に漂着する。 柔らかい砂に船底をかませれば、 船は静かに停止するだろう。 午後十時十二分、洞爺丸は函館桟橋へ打電した。 「両エンジン不良のため、漂流中」 「貴船位置、風向き、突風知らせ」 桟橋は打電したが、洞爺丸はすぐに応答しなかった。 それどころではなかった。 「あと1000メートルです」 山田二等航海士が叫ぶ。 ブリッジの誰もがいつ、ズシンと砂の感触がくるか、 と、あらゆる神経を集中しながら しぶきをかぶって手近なものにつかまっていた。 流される船を追いかけてくる波は ブリッジの窓の間から打ち込み続け 床を海水が洗っていた。 不気味な沈黙がブリッジを支配した。 かなりの早さで流されているのがわかる。 それに抵抗できないでいるもどかしさの中で 航海士も操舵手も来る瞬間を待ち受けている。 突然、操舵手の一人が大声をあげた。 「風が落ちています!突風28メートル」 桟橋からの打電に返事をしなければならないことに気づいて風速計に目をやった彼は 風が衰えていることを知ったのだ。 波とうねりが極限まで膨れ上がった絶望的な状況の中で 事態が好転するかもしれない徴候が現れたのだ。 「ヤマは越えたな。あと少しの辛抱だ」 船長の声に明るさが取り戻った。 洞爺丸は桟橋へ遅くなった返電を打った。 「防波堤灯台より267度、8ケーブル、風速18メートル 突風28メートル、波、八」 そのこととは別に船室の乗客たちの間には どこか安堵したような表情が広がっていきつつあった。 ウン、ウンと気味悪くうなっていた エンジンの音が消え、揺れも少なくなったからである。 左舷側からの風と波にさからえないまま、 流されているので船は絶えず 一定の角度だけ右へ傾いている。 そのせいで、左右への横揺れはずっと減ってきていた。 三等船室のスピーカーが ぴゃ、ぴゃ、というように鳴った。 なにか放送しているらしいが、 どこか故障しているのだろう。 それがあまりに滑稽に聞こえたので 元気な乗客の数人は声を立てて笑った。 一、二等船室では放送はちゃんと聞こえた。 それはこう放送していた。 「風速は30メートル程度に収まってきました。 もうしばらく、ご辛抱ください」 座礁を前に乗客を落ち着かせようと 船長が命じた放送だった。 「海岸まで、あと800メートル」 山田二等航海士の声がしたとき、ドン、ドンと 軽い音が二度続けて船底から伝わってきた。 「揚がった」 水野一等航海士が言って、手の甲で汗をぬぐった。 船は座礁したのだ。 ショックはそれほどなかった。 右への傾斜は変っていないが、海底の砂へ 滑り込むように船底が着いたのだと思った。 「二十二時二十六分、座礁せり」 打電した洞爺丸に桟橋は答えた。 「最後まで頑張ってください」 |
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【331】 |
野歩the犬 (2015年06月24日 16時11分) |
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【59】 洞爺丸の機関室では広岡機関長らが 祈るような思いで配電盤を見つめ エンジンの回転音に耳を傾けていた。 熱された潤滑油ポンプや各種機器に 天井から海水が降り注ぎ、 蒸気になって室内は視界がきかないほど 真っ白にけむっていた。 部員たちはみな頭から濡れ、垂れた髪が はりついた顔に眼ばかりを光らせて 斜めになったからだを支えている。 浸水はどんどん増え、船の揺れにつれて 機関が水没してしまいそうになる。 そのたびに部員たちは命が縮む思いがした。 左舷エンジンを再び激しい振動が襲った。 と、見る間にポッと煙を吐き出した。 それっきり、エンジンは止まった。 「だめになった。ブリッジに報告してこい」 機関長の命令で操機手が駆け出していった。 「左舷エンジン、停止しました」 操機手の声は震えている。 ブリッジの士官たちは呆然とした。 二つある船の心臓のひとつが止まったのだ。 「右舷エンジンはどうだ」 「はい、排水困難で時間の問題と思われます」 操機手が機関室へもどってくるか、こないうちに 右舷エンジンも同じように煙を吐いて停止した。 操機手はまたブリッジへの階段を 駆け上がらなければならなかった。 午後十時七分、洞爺丸は桟橋宛てへ打電した。 「主エンジン不良となる」 ボイラー室では焚いていた五つの焚口のうち 三つが浸水して不能となった。 残るのは二基だけである。 粉炭が排水口に詰まったために 浸水は機関室よりひどかった。 「エンジンは止まった」 悄然としてボイラー室へ入ってきた機関長は言った。 「もう、焚かなくていいよ」 「焚けといわれたって」 火手長も情けなさそうに応じた。 「焚ける状態じゃ、ありませんよ」 「しかし、右舷発電機はまだ生きている。 これを回しておくのには蒸気がいる」 「二基使えるのでなんとかしますが、 そんなにもちませんぜ」 機関室へ戻った広岡機関長は部員たちに命じた。 「電気係は最上部デッキに上がって 非常発電機の用意をしろ。 救命胴衣を忘れるな。あとは部屋へ戻れ」 総員退避であった。 機関長は一人、誰もいなくなった機関室にとどまった。 「一、二号基の係りのほかは 部屋へ戻って貴重品を整理しろ 救命胴衣を着けてやるんだ」 ボイラー室では火手長が命令した。 機関長と火手長に共通していたのは 電気がついているうちは 船は大丈夫だ、という認識だった。 経験豊かな船乗りなら誰でもそのことを知っている。 電気がついているのは発電機が動いている証拠だし、 発電機があればエンジンが回せるし、無電も使えるのだ。 しかし、今の洞爺丸の場合、 エンジンの方が先にやられてしまっている。 それでも二人は迷信にすがりつくように 電気がついているうちは、と心の中で思っていた。 最上部デッキに上がった操機手たちは 波に叩き落されそうになりながら 非常発電室へと入った。 しかし、船の揺れと傾斜で どうしても起電操作ができない。 ふだん、まさかそれが必要になるとは 思ってもいなかったので手入れもしていない。 非常発電機への切り替えは絶望的だった。 疲れきって部屋へ引き揚げてきた操機手や火手たちに 賄室から炊き出しが届けられた。 塩を付けただけの握り飯が真っ黒に汚れた バケツの中に放り込んであった。 お互いが、からだを支えあいながら、 誰もが無言でそれをほおばった。 |
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【330】 |
野歩the犬 (2015年06月24日 16時05分) |
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【58】 午後十時二分。 洞爺丸は函館桟橋に宛てて 次のように打電してきた。 「かろうじて船位保ちつつあり 詳細あと」 左舷エンジンの出力が落ちてから 船は波に浮いているのが精一杯になっていた。 全速で風に向かえないので、 どうしてもどちらかに流される。 走錨にさからう力も弱くなっていった。 右から風と横波を受けると、船は左舷側へ 30度ほど傾いたまま押し流されてゆく。 ようやく船首を立て直したときには 風と横波は左に変る。 今度は逆に右舷側へ30度傾き始めるのだった。 ブリッジには傾斜角度を示す計器が 備え付けられていたが、その針は 危険ラインを示す34度をしばしば突破した。 もう少し傾いたら復元力を失う ギリギリのところへきていた。 傾きの向きが変るたび、つかまるところのない 乗客は船室の隅へ飛ばされていった。 子どもは柱にぶつかってぐったりとなり、 通路に落ちた老女の上に何人もが折り重なった。 船室には桟橋へ引き返せ、 という声が上がり始めていた。 しかし、乗客に怒鳴られる給仕たちには今になって 船が引き返せるはずがないことはよく分かっていた。 船首を風に立てることさえ困難な中で 無理に船の向きを変えようとしたら 横波を食ってひっくり返されるだろう。 かりに回頭に成功したとしても 桟橋に近付くのはさらに危険だ。 叩きつけられて船は二つに割れるに違いない。 近藤船長は乗客たちが願うのとは逆に 錨を上げて沖へ出ようか、と何度も考えた。 大雪丸が先に出ていったように、 ちちゅう航法をとるのだ。 走っていたほうが錨を支点にして 振り回されるより、揺れは少ないかもしれない。 しかし、車両甲板が浸水した状態で 船を動かすのは思っただけで ぞっとするようなことだった。 ちちゅう、に移るのには遅すぎた。 それに大雪丸が沖へ出ていったのは 走錨がひどかったからで 幸い洞爺丸はそれほど錨が引けているわけではない。 「このまま、風がおさまるのを待つしかないな」 すぐ隣の窓枠につかまっている 水野一等航海士に向かって船長は言った。 |
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【329】 |
野歩the犬 (2015年06月22日 15時31分) |
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【57】 午後十時、台風15号は積丹半島の先端、神威岬へ その爪先を伸ばしていた。 勢力は956ミリバールを保ったままである。 台風が進行してゆく後面では いぜん、風が衰えをみせない。 寿都、江差、函館などで最大瞬間風速は 50メートルを超えていた。 函館の市街では街路樹が 根こそぎはがされ、家々が潰されていった。 桟橋の運航司令室では吹き飛ばされてきた トタン屋根のために窓ガラスが破られた。 風が吹き込むのを防ぐため毛布を打ちつけ、 ゆらゆらと揺れるローソクの灯りの下で 運航指令たちが湾内の各船から 入ってくる無電の対応に追われていた。 やはり台風の後面にあたる青森でも この時間になって風速が15メートルを超えてきた。 午後からずっと5〜10メートルだった。 「やっと、きたな」 羊蹄丸の佐藤船長はようやく渋面を崩した。 ずいぶん遅くなったが、これが 台風の吹き返しに違いない、と思った。 午後四時ごろから青森の風向は 南西、ないし南南西だった。 これは台風が東へ抜けていかず、 北海道の西岸にいることを意味していた。 東へ抜ければ偏西風に乗って足早に去ってしまうが 西岸にいるうちは油断ができない。 台風が北海道西岸にいるなら、函館には激しい風が吹き その余波は青森へもきっと来る。 それを自分の目と肌で確認したうえでもう一度、 なぎが訪れるまで船は出すまい、と決めていた。 いま、吹き始めたのが予測していた 風であることを彼は確信した。 台風の吹き返し、というのは 適当ではないかもしれないが ともかく、その影響には違いないのだ。 「当分、吹くだろう。もっとひどくなるかもしれん。 すべてはそのあとだ」 佐藤は船長室のソファに足を投げ出して ゆっくりとタバコに火をつけた。 午後四時半の出航予定時間から五時間半が経っている。 船に残っている乗客たちやしびれを切らして 桟橋の待合室に引き揚げた人々の間から あからさまな不満や非難の声が 挙がっていることを彼は知っていた。 誰もが急用に間に合わなくなり、 旅行のプランをご破算にされていた。 しかも青森では午後から夜にかけて 決して荒天ではなかったのだ。 怒りたくなる客の気持ちが船長にはよくわかる。 洞爺丸が出航した、と聞いたときには しまった、と焦りさえした。 しかし、それでも彼は自分の感情で 天候の変化を確かめるまでは 船を動かさない、という方針を頑として変えなかった。 馬鹿と罵られようが、あとから嘲笑われようが、 それが俺のやり方なのだ、と決めていた。 夜になって函館から伝えられてくる情報は 安堵と懸念の入り混じった複雑な気持ちを彼に抱かせた。 函館港の惨状が現実のまま、想像できたわけではないが、かなり、荒れているらしいことは十分にわかった。 そんなところへ入っていかなくてよかったな、と思い テケミした自分の判断に少し自信をもった。 定時に出航していれば他の船と一緒に嵐の中でもみくちゃにされていただろう。 まさか、この大きな船が沈むことはあるまいが、 混乱した港内ではどんな不測の事態が起きるかわからない。 そしていま、風が強くなり始めたのを感じたとき、 自分の判断が間違っていなかったことを彼は信じた。 天候は予想通りに変化している。 これでよかったのだ、と思った。 しかし、連絡船が遅れたことに対する今日の 乗客たちの恨み、つらみだけは残るだろう。 「つくづく孤独な職業だな」 と佐藤は改めて思った。 確かに船長という職業は華やかで誇り高い職業だ。 百人を超える乗組員が彼の命令に従って 整然と動き、ひとつの秩序をつくりだす。 その意味で船長はオーケストラの指揮者に似ている。 しかし、船長がスポットライトを浴びるのは 船という舞台を動かせているときだけだ。 時として自然が怖ろしい威力をみせたとき、 船長はまるで無力である。 船を岸壁にとめていても、海の只中にあっても。 |
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