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【2862】 | RE: だからどうしたと言われましても。 カンパチ (2012年06月12日 07時06分) |
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SRO魂 さん 靖国問題に興味がおあれば、と思ってレスしてみました。靖国の歴史です。 明治政府は、古神道の全国の神社を再編、組織化し、天皇を現人神とする国家神道に組み込みました。 そして、二つの神社系統に整備されました。 一つは、、地方の伝統的な神社を、皇室との関係を基準とした社格で序列化し、その頂点に伊勢神宮を置く神社組織です。神宮組織と言ってもいいです。 もう一つは、護国神社を下部組織とし、靖国を頂点とする神社組織です。靖国は、1887年に軍の管轄下に置かれます。 靖国を頂点とする神社組織は、府県レベルの指定護国神社、より小さい地域レベルの指定外護国神社など、全国に組織網が張り巡らされました。その頂点である靖国が陸海軍の軍事施設であることによって、全国の組織も宗教施設であると同時に、軍事施設であるという二重の性格を持ちました。 靖国が、他の神社と決定的に違う特色は、他の神社が、当時すでに歴史上の人物となった特定の個人を神格化したのに対し、靖国は、過去の歴史上の人物だけでなく、将来にわたって祭神が増加することを予定した神社だと言うことです。 即ち、戦死者を際限なく神格化することを目的としており、それは、戦死の美化=戦争の正当化を国民に印象付けるものでした。 では、明治以降になって、なぜ、国家神道が要請されたのでしょうか。 明治維新前と以後では、日本の社会構造が違うのです。 明治維新は、一言で言えば、日本という地理的な場所に住んでいる人々を「日本人」としてひとくくりにした出来事です。 江戸時代までの日本は、藩という独立国家の集まりであり、徳川幕府という、最も強力な国が、武力と儒教倫理で制圧していたのであって、全ての藩が全部集まって、連帯していた国ではありません。 具体的に言えば、青森の人は、福岡の人と同じ日本人だと言う意識は全くありませんでした。幕末、長州がイギリスと戦争しましたが、四国の人は全く無関心でした。「同じ日本人が戦っている」「日本が危機にある」という意識は無かったのです。 幕末、ペリーが来て開国を迫ったときも、日本人の意識はばらばらのままでした。だが、一部の、海外事情に詳しい人たち、特に、薩摩の家臣達は、「薩摩がやばい」というのではなく「日本がやばい」という危機意識を持っていました。 幕末の多くの内戦は、「日本がやばい」と思った人たちと、そうじゃない人たちとの闘いだったと言えるかもしれません。もちろん、きれいに分けるのは難しいですし、間でふらふらしてた人も多いのですけど。 さて、明治新政府ができたわけですが、当局者が最も苦心したのは、「どうすれば、ばらばらの日本人に、『我々は、みんな同じ日本人だ』と言う意識を持たせられるか」でした。 対外的な危機を乗り切るには、日本人という民族を一枚岩にする必要があったからです。団結しないと、とても、西洋列強に対抗できない、と考えたからです。 この「我々意識」を持たせるのに政府が利用したのが、教育、軍事であり、宗教であったわけです。 江戸時代までは、各地域で、それぞれ勝手に神様を作って、祀っていたわけですが、政府は、意図的に、天皇を現人神に仕立て上げ、国家神道なるものを創作することで、「日本人が祀るのは天皇である」とし、国民に信じさせることで、日本人の意識を一本化し、日本全体を統治し易くした、というわけです。 国家神道そして靖国は、国民統治を精神面、思想面で完成させるための統治手段だったのです。 |
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【2870】 | ![]() |
SRO魂 (2012年06月12日 11時04分) |
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これは 【2862】 に対する返信です。 | |||
更にカンパチさん その前に・・・ 笑夏’さんw 返レスありがとです♪ ちょっと待ってくださいねw カンパチさん♪すごく興味深く読ませてもらいました。 こうしてみると、明治維新といえども武士時代からの流れをそのまま受け継いでいる流れもあるんですねw ってw常識的に考えれば当り前かもですねw 日本国民として一致団結するための策としては、成功したと言えますね。 こうしてみると、大きく世の中を変化させる際には、やはりマインドコントロール的な 統治手段が用いられるんですねwww こんなこと考えちゃうとw 今の自分の考えがw ほんとに自分で構築した考えなのか? ってw疑問が生じますねwww |
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